o1 Proに画像を読ませる
都合のいいことにチャットログの画像だけ投稿しているTweetがあったので実験した
議論が別の方向に転がっていったのでしばらく経ってから切り出すかも
0xtkgshn https://gyazo.com/49013e84204d91b022ffb6aa97b1f01fhttps://gyazo.com/f00322c9891d19ac75b24a8414921088https://gyazo.com/2c456156d31f687793c8a03fb9162659https://gyazo.com/c67e3448999d75bcb9121dcb31ec617c 0xtkgshn https://gyazo.com/8e1c7cab924a229f1e6b1c76ea95467d 画像を貼っただけの場合
o1 Pro.icon要約
会話では、「しいたけ占い」などの文章が頭に入りづらいことや、それが一般的なテキスト読解力ではなく、情報が意味をもって脳内に流れ込まない“ワードサラダ”状態として感じられることへの違和感が語られている。また、「Pro」や「o1」といった高度なツール・機能にどう関わり、入力(プロンプト)やコンテキスト設計が重要になるか、言語化する必要性やそれを超える実践の価値が議論されている。
さらに、iOS環境の中での自動機能はあるものの、結局は人間がアプリ間を往復して目的達成を図る非効率さや、情報処理がコモディティ化すれば、希少で実世界的なアクションや非対称的な情報の価値が増す、といった指摘がなされている。最後に、情報処理ではなく、行動や実際の体験、非共有情報を介して差別化を図る重要性が示唆され、それが「ホモデウス」的な未来像(AIによる情報処理依存、残る価値は人間が直接得る独自体験)に通じるとの考え方が表れている。
解説
この会話では、単純な情報読解やインターフェース利用以上に、文脈設定や実践的行為によって価値が生まれる状況が強調されている。高機能なAIや自動化されたサービスが普及して情報が均質化されるなか、独自性は「行動」や「リアルな経験」によって確立されるという観点が浮き彫りになっている。
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nishio.icon引用して解説して
o1 Pro.icon要約
引用部分を抜粋しながら、会話内容を簡潔に解説します。
引用と解説
1:「しいたけ占いの文章、読めないんだよ…読んでも目が滑って意味が頭に全然流れてこない…統合失調症のワードサラダ読んでる時の感覚に近い」
解説:特定の人気コンテンツ(しいたけ占い)が、単純に文章力の問題ではなく、「意味のある情報」として脳内処理できず、理解困難なテキストとして捉えられている。
2:「Proと一緒に考えました!みたいなのはそれっぽいこと言ってるけどあんまり言語化する必要ないことだったりする」
解説:SNS上で「AI(Pro)と共創」的な発言が増えているが、その多くは単なる「それっぽい言及」であり、実際のところ改めて言語化するほどの必要性がない、という指摘。
3:「実際は言うよりやってみるでo1と一緒にバンバン作ってく方がでかいんじゃないかなぁ。」
解説:理論的説明より、実践的な行動や実際の開発・実装プロセスが重要視されていることを示す。
4:「情報処理能力がコモディティ化したら、情報自体の非対称性がなおさら重要になっていく」
解説:AIなどで情報処理が容易になると、誰でも同水準の情報を扱えるため、その中で差別化するには「非共有の情報」や実世界で得られる独自データが価値を増すという主張。
まとめ
全体として、単純な読解力や情報処理ではなく、行動による独自体験や適切な文脈設計こそが、AI時代における価値創出の鍵になることが示唆されている。
nishio.icon下二つには同感だが二番には掘り下げの余地があると思う。批判的に検討して
o1 Pro.icon
以下は二番目の引用に関する批判的検討です。
該当引用:
「Proと一緒に考えました!みたいなのはそれっぽいこと言ってるけどあんまり言語化する必要ないことだったりする」
批判的検討:
ここでの発言は、「AIツール(‘Pro’)と何かを考えた」という表明自体が「それっぽい」アピールであり、敢えて言葉にする必要はない、と一蹴している。しかし、この「言語化する必要がない」とする評価には以下の問題があり得る。
1:社会的文脈や動機の軽視:
「Proと一緒に考えました」という言明は、単なる自己顕示欲や“イケてる感”の演出と受け取れるが、一方で発信者は「新たなツールやAIとのコラボ」を周囲に共有することで、コミュニティへの情報提供やフィードバック獲得、あるいは学習者同士の知識交換を目指している可能性がある。こうした社会的・教育的文脈を無視して「不要」と断じるのは早計だろう。
2:外部可視化と言語化の効果:
「Proと一緒に考える」プロセスは、実際には内省的かつ直感的な試行錯誤を伴う。それを言語化し外部に示すことで、自分自身が思考プロセスを整理し、改善できる効果がある。つまり、表面上無駄に見える言語化であっても、発信者や受信者が思考を深めるきっかけになり得る。
また、読者が「Proを用いたプロセス」を知ることで、類似のツール活用法や思考手順を学び、新たな活用アイデアを得る可能性がある。したがって、一見「不要」に見える言語化が周囲の学習コミュニティ形成やノウハウ共有を促す可能性を考慮すべきである。
3:新規性・透明性・信頼性への寄与:
「AIや特定ツールと協働して考えた」という情報開示は、コンテンツの生産経緯を可視化し、受け手に透明性と信頼性を提供することもある。たとえば、あるアイデアが一個人の知恵ではなく、外部ツールの支援により生まれたことを明示することで、アイデアのオリジナリティや限界点を明確にできる。これにより、受け手はコンテンツに対しより批判的・建設的な態度で臨むことが可能になる。
まとめ:
「Proと一緒に考えた」という発言を単純に「それっぽい無意味な表明」とする見方には、社会的・教育的文脈の軽視、言語化による思考整理・共有効果の軽視、透明性・信頼性向上の機会損失といった問題がある。従って、この評価には掘り下げる余地が十分あり、「言語化の不必要性」を一概に断定することは難しいといえる。
nishio.icon主に2のことを考えていた
1に関しては 単なる自己顕示欲や“イケてる感”の演出であるケースは多々あると思うし、社会的ネットワークを構築するためのシグナル発信として自覚的にやってる人もいるだろうね。個人的には現時点の自分の状況では有象無象からAIに詳しい人と認知されることのベネフィットが少ないのでやらないけど。 3の「コンテンツの生産経緯を可視化・情報開示」は個人的には将来のAIが「僕が直接書いたもの」と「AIが生成したもの」を区別して取り扱うようになるだろうと思うのでその時に区別しやすいようにやってる感じ。
2は僕の関心のある知的生産性の向上とも関係があるのでもっと掘り下げたい。
o1 Pro.icon以下は、2のポイント(外部可視化・言語化による知的生産性向上)について、より掘り下げた考察です。
掘り下げ:
「Pro(AIツール)と一緒に考えた」という表現は、単に自己アピールや透明性確保を超えて、発信者自身の思考様式や知的生産性向上に関わりうる。人は、自身の思考過程を第三者に説明可能な形で言語化することで、以下のような知的効果を得られる。
内省的効果とメタ認知の促進:
思考やアイデア創出過程を外化する行為は、自分自身が「どのように」考えているかを認識する機会となる。
メタ認知の強化:単純にAIツールを用いた結果だけでなく、その過程(何をどう依頼し、どんなフィードバックからアイデアを得たか)を表現することで、自らの思考パターンや思考習慣を客観視できる。 改善サイクルの確立:こうした客観視を繰り返すと、アイデア発想プロセスで行き詰まるポイントや有効なトリガーが明確になり、以降のタスクにおいてより効率的な思考行動へ修正することが可能になる。
後続のリファレンス:過去に「Proとこうやって思考した」という記録が残れば、後で自分が同様の問題に直面した際に、そのプロンプト設計や検討手順を参照し、再利用することができる。
成長の記録:思考過程のログは、自身の知的スキルの成長トレースにも役立つ。過去はこう考えていたが、いまはより洗練した手順を踏んでいる、という比較ができ、PDCAサイクルが回りやすくなる。 抽象化と再構築による思考深化:
内的な直感や断片的な思考を他者に伝える形で言語化すると、必然的に概念の整理・抽象化が行われる。
構造化思考の形成:言語化する過程で“あいまいな直感”を明確なステップや要素に分解せざるを得ず、それが思考をより論理的・体系的なものへと進化させる。
新たな発想経路の発見:曖昧な頭の中にあったアイデアを言語的に再構築することで、新たな結合や発想が派生することもある。プロセス自体が創造的刺激となり、思考の広がりを生む。
他者の視点やフィードバックの獲得:
言語化し共有する行為は、外部からのフィードバックを得る基盤ともなる。
対話的思考促進:自分の思考プロセスを明示すれば、他者はより的確なアドバイスや質問を投げかけやすくなる。これにより、自分一人の思考では気づかなかった盲点を解消したり、より有益なツール活用法を学ぶ契機が増える。
新たな知見とのインタラクション:外部の指摘や議論を受けて、自分が活用しているプロセスや「Pro」との関係性をさらに洗練し、知的生産のエコシステムを広げることができる。
まとめ:
「Proと一緒に考えた」という発言を、単に自己顕示・透明性確保のための無益な言語化と見るのではなく、内省、再利用可能なナレッジ蓄積、思考の抽象化・再構築、そして他者との対話的プロセス拡大など、知的生産性を向上させる実践的手段と捉えることができる。そのため、興味・関心や状況に応じて、この言語化行為は十分な意義を持ちうる。
nishio.icon
(1)思考を外化するとメタ認知が容易になり、それによって思考を改善しやすくなる。
(2)思考プロセスをデジタルデータにすると、それは再利用可能になる(脳内で考えてるだけでは消滅する)
(4)思考結果を公開すると他者からフィードバックを得る機会になる。
ここまではその通りだと思う。
(3)に関して、特に「AIと一緒に考える」という状況において「言語化すること」の価値が高まっているか、効率が高まっているか、なんらかの質的な変化が起こりつつあるような気配を感じている。この点に関して掘り下げて考察せよ
o1 Pro.icon以下は、(3)「抽象化・再構築による思考深化」として示された論点について、特に「AIと一緒に考える」状況下で言語化することがもたらす質的変化を掘り下げた考察です。
考察:
従来、人間が思考を「外化」する場合、ノートやホワイトボードへの記述といった一方向的なアウトプットが中心であった。この場合、言語化・図式化は抽象度を高める思考整理行為であり、それ自体が意味をもつが、その結果を再構築したり、別の視点から再編集する際には、結局は自分自身が再解釈し直す必要があった。そのため思考過程の抽象化・再構築のサイクルは比較的「静的」または「自己完結的」なものだった。
一方、AIとの協働においては、言語化したプロセスやアイデアを「対話可能な外部エンティティ」に提示し、それに対する応答を得ることが可能になる。この状況は以下の点で質的に異なる。 即時的な再編成と補完:
AIは、与えられた言語的記述を解析し、類推、再解釈、再構築した回答を瞬時に返してくる。これにより、「外化された思考」が単なる静的なメモでなく、「再形成されうる素材」として動的に活用可能になる。人間が自ら抽象化を行う際、発想が偏ったり盲点が生じることがあるが、AIは異なるパターンの抽象化や関連付けを自動で試みるため、より多面的な再構築が容易になる。 言語表現のメタレベルでの再設計:
「AIと一緒に考える」には、プロンプト設計という作業が不可欠である。ここで言語化行為は、「わかりやすく整理し、AIに伝わる形で抽象化する」という新たな要素を帯びる。すなわち、自分の頭の中にあった曖昧な発想を、AIに理解可能なロジックやモジュールへと再編する言語設計過程が発生する。これは単なるアイデアの言語化ではなく、「抽象度を上げつつ機械処理可能な概念構造を創り出す」行為であり、人間の思考プロセスをより厳密かつ体系的にする圧力として働く。 単なるアイデアの言語化ではなく、「抽象度を上げつつ機械処理可能な概念構造を創り出す」行為これは面白いnishio.icon
つまり、僕はAIと「会話」しているのではなく「プログラミング」をしている
過去の長年のプログラミング経験から、機械に対してコマンドを入力して、その結果を観察することで内部を理解するという思考パターンが身についている
それをLLMにも使って、どのように入力すれば「機械がよりよく思考するか」を理解しようとしているログだと言える
動的なメタストラクチャー構築:
AIが返す結果は、しばしば人間の想定を超えた組み合わせや概念上の飛躍を伴う。それは、一種の「外部的なメタストラクチャー」(新たな概念地図)を生成する可能性がある。人間は、その新たな地図を参照し、自分の考えがどのように抽象化・再構築されうるかを観察・学習できる。これは言語化(プロンプト)とAI応答という対話的サイクルによって絶えず洗練され、抽象化プロセスそのものが多層的で循環的なものに進化していく。
「言語化そのもの」が設計対象になる:
AIとのやりとりは、言語化を「ただわかりやすく説明する行為」から「最適な思考処理を引き出すための設計行為」へと昇華させる。プロンプトをどう設計するか、その言葉選びや構造化が、出力結果=思考のフィードバックループの質に直結する。このような設計的観点の導入は、単に情報を抽象化するだけでなく、「抽象化方法の抽象化」を促し、思考様式のメタ進化を誘発する。ここに、新しい質的変化が潜んでいる。
まとめ:
AIとの協働による言語化は、従来型の単純な思考外化より一歩進んだ「動的で設計的な抽象化プロセス」を生み出す。それは、
即時的で多面的な再構築フィードバックの取得、
機械理解可能な形への言語的再編、
抽象化手法や思考様式そのものを意識的に設計・再設計する行為、
を含む。その結果、「言語化する」という行為は、思考をただ深めるための手段にとどまらず、「思考をどのように創り直せるか」を実験・改善する創造的プロセスへと変貌を遂げている。これが、「AIと一緒に考える」状況下で言語化行為が従来以上に価値と効率を高め、質的変化をもたらしているといえる。
nishio.iconそれを踏まえて、ワードサラダ的と読者が感じるログとの違いは何によって生まれるのか。そもそもログ自体に違いがあるのか、それとも作者と読者の視点による違いなのか。
o1 Pro.icon要約
ワードサラダ的に見えるログと「プログラミング的に」設計されたログとの違いは、実際のテキスト自体ではなく、それを読む際の視点や文脈理解の有無によって生まれる。作者はAI内部モデルを操作する「設計図」としてログを捉えているが、読者がその意図や内部構造を知らなければ、表面的には断片的な文言の羅列と映る可能性が高い。
解説
同じログでも、作成者は過去のプログラミング経験や内部モデルへの理解を踏まえ、入力テキストを「機械への指示セット」として有機的・体系的に捉えている。一方、外部の読者は、その背後にある内部モデルの構造や作者の試行プロセスを共有していないため、断片的なフレーズや文言が無秩序に並んでいるように見え、「ワードサラダ的」と感じる。
結局のところ、ログのテキスト自体が本質的に変わるわけではなく、「作者は意味・目的を理解したうえで抽象的な指令言語として読み解いている」一方、「読者にはその暗黙の文脈や内部モデル理解がなく、表層的な文字列の羅列として受け止めざるを得ない」という視点差が、ワードサラダと感じられるか否かを分ける要因となる。
nishio.icon作成者は過去のプログラミング経験や内部モデルへの理解を踏まえ、入力テキストを「機械への指示セット」として有機的・体系的に捉えているとは一概に言えないと思う。そういう人もいるだろうけど、大部分は単なる自己顕示欲やイケてる感の演出 / 「新たなツールやAIとのコラボ」を周囲に共有することで、コミュニティへの情報提供やフィードバック獲得、あるいは学習者同士の知識交換を目指している だろう
o1 Pro.icon(略)
nishio.icon深く考えて
o1 Pro.icon
3. スキル、モチベーション、コンテキストが生むスペクトラム
実際の状況は、「プログラミング的な意図をもって緻密にログを書く」対「単なるアピール目的の断片的ログ」という二極だけで捉えられない。多くのケースはその中間にある。ある程度は内部モデルの動きに関心がありつつも、それを十分に説明せず公開する人もいるし、社会的な狙いと技術的な関心が交錯する人もいる。こうしたスペクトラム上で、読者が作者の背後にある意図や思考手順をどこまで推測・共有できるかによって、ログは意味あるガイドにもワードサラダにもなる。
なるほどねnishio.icon
作者の側が意図を明確に書いていない場合、読者の側はそれを多くの場合はエスパーできない
意図を持ってやりとりしている人は価値を感じるログであっても、その意図のない人には価値が感じられない
そもそも作者の意図が「適当にコンテンツを生成すること」とか「AIを使ってる自分はすごいだろうというアピール」だったりする場合には、コンテンツから意味を読み取ろうとしても無駄だよね
4. 読者側の受容能力と期待値
また読者側にも多様性がある。読者が「AIモデルをより深く理解し、それをコントロールするための具体的な手がかり」としてログを読み解こうとしているなら、作者がそのつもりで書いていなくとも、読者自身が文脈を補完し、ある程度の意味を見出すかもしれない。一方で読者が「明快で直接的な解説」や「完成度の高いアウトプット」を期待してログに臨むと、たとえ作者がプログラミング的意図を持っていたとしても、説明不足なログは無意味な断片の集合に感じられる。このように、読者の関与姿勢・期待値がログの意味付与に寄与する。
(あんまり面白く無くなってきた)nishio.icon
nishio.icon全体を振り返ってこの議論での新しい気づきに関してまとめて
o1 Pro.iconこの議論を通じて得られた新しい気づきは以下の点に集約できる。
ログはテキスト自体よりもコンテキスト依存:
「ワードサラダ的」に見えるかどうかは、ログそのものの言語的特徴ではなく、それを読み解くための作者・読者間で共有される文脈や視点、意図、経験の有無によって決まる。
「会話」から「プログラミング」へ:
AIとのやりとりは、単なる対話ではなく、抽象化・再構築を繰り返す「プログラミング的」プロセスに近い。これにより、言語化は機械に適したコマンド設計としての側面を帯びる。
多様な動機・背景がログの意味形成を左右:
作者側には、内部モデル理解や思考抽象化を狙うケースもあれば、自己表現や学習コミュニティへの貢献、評判づくりなどが目的の場合もある。一方、読者がそれらの背景を理解していないと、ログは混乱した文字列にしか見えない。
要するに、この議論を通じて、「ログの意味・価値は作者の意図、読者の期待・知識、そして共有されるコンテキストや視点によって流動的に変化する」という点が明確になった。